「得るのではなく与えられる知恵」   08.10.18
                         コリント一1:18〜31

 キリスト教会における「救い」は、ある一定の基準を満たした者が
手に入れるものではありません。神についての何らかの知恵を
得た者、理解している者、あるいは修行のような経験を得た者が
救われるのではありません。
 救いは自分の努力で得るものではなく、ただ与えられるものです。
 「十字架につけられたキリストを宣べ伝えています」とあります。
教会は、神の子イエス・キリストが私たちのすべての罪を抱えて
十字架にかかり、死んでくださったことを語り続けてきました。
 主イエスがそのようにして十字架にかかられたので、私たちの
罪が赦され、死んで滅びる者が救われるとの福音を、教会は
宣べ伝えてきました。この救いは神主導の出来事です。
 人が、協力したり参加するものではありません。
 またその必要もありません。人は、それを感謝しながら喜んで
受け止めるだけです。
 神さまが選び、その人に救いを与えてくださいます。無学な者、
無力な者、身分の卑しい者、見下げられている者を、救われる
者としてお選びになりました(27-28節)。つまり「無に等しい者」を
選ばれたのです。「無に等しい」は「存在しない」とも訳せます。
 「無に近いけれども、少しは何かがある」というのではありません。
 まさに無に等しいのですから、「無」なのです。何も無いゼロの状態です。
 「救いにふさわしいものは何も持っていなかったけれども救われた」と
はっきり告げられています。
 人は何かを手にすると、すぐに傲慢になるようです。そして、手にして
いるものが少ない人を軽んじます。あるいは、持っているものが少ない
自分を責め始めます。信仰の事柄も、そのような思いに振り回され、
救われている幸いを見失うことがあります。
 「私は、何も持っていなかったあなたを選んで、救いに入れたのだ。
持っているかどうか、出来るかどうかに、心を振り回されなくとも良い。
自分を責めるより、救われたことを喜んで感謝していなさい」との、
主なる神の言葉を聴かされています。